おやかたさまがとうとう帰らなかった日、偶然にも、御柳は傷で、は病で、それぞれに臥せっていた。 みだいどころをはじめとした一同の嗚咽をとらえてしまう聴覚に苛立っていたふたりは、しかしこの薄暗い屋敷の中では異質なことに、まったく死とは無縁だった。 御柳は何よりもまず件の敵将の首がほしかったし、は、水がほしくてしかたなかった。渇きに耐えかねて布団を抜け出したのは、それこそ熱に浮かされていたのだろう。 は井戸のある場所を知っていたが、そこは彼女に与えられた部屋からはだいぶ遠かった。 普段ならば気にせず向かうか、中ほどの距離にある炊事場の水がめをもちいるかの二択だ。もちろんが選ぼうとしたのは後者だったが、たどりついたそこは炎がチロチロとゆれるばかりで、水がめの中は赤黒く濁っていた。 しかたなく、引き返した。 独特の酷いにおいに顔をしかめながら御柳は煎じ薬を飲み下したところだった。 障子越しにときおり悲鳴が聞こえ、さらに少ない頻度ですぐ近くを荒い足音が通り過ぎていった。気配を殺しているつもりはなかったがふしぎなことに誰も気づかないようだった。 普段自分がしている戦と同列に考えるなら、まもなく敵軍はこの場所へも押し入ってくることだろう。検分にあたって将が動くことはない。こんなところまで来るのは小物だ。おそらく唯一であろう機を逃すことがあってはならない。先回りして待ち構え、一度で仕留めなければならない。 そろそろと枕もとの武具に手を伸ばす。足音が聞こえる。どうせ気づかない。掴む。 バ、 御柳はうすい紙を破って突き出した手を凝視する。 「誰だ」 立ち上がらなければと思ったのに膝がふるえるばかりだった。 紙の向こうに隠れた腕は自然におちることをしない。混乱の渦中にある舘で、障子を破ったぐらいで叱る誰かがいるとは思わなかったが、まさか捕まるとも思わなかった。熱のせいだけではなく背中が冷えた。 「誰だ」 低い声が二度目の誰何をくりかえす。 誰。 答えようとしたけれど喉がヒュウと音を立てただけだ。せめてこちらから名乗ることが叶うなら、双方に敵味方の判別ぐらいはついただろう。味方に殺されてしまうほどぶざまなことはない。 「答えろ」 出来ることならとっくにそうしている。無意識に苦笑しては体中の力を指先に込める。動け、動け。そうだひとは音を無くして言葉を伝える方法を知っている。文字、を。 ものやわらかな仮名の線を三度、空中に描いたところで、つかまれた腕が開放された。 「…寝てるんじゃなかったのか、おまえ」 呆れたような声と共に障子が開き、御柳が、を見下ろした。 戦に出るものの聴覚は、大きすぎる物音に崩されぬために退化するか、あるいは小さすぎる音さえも拾って生き延びるために進化するかの両極端だ。御柳もも、ともに後者を選んでいた。 炎が舘を浸食していく音は、はじめとおく、やがてちかく、そして今ではどこからも聞こえてくる。 もう敵の気配がしてから半刻は経つというのに、奇妙なことに彼らは、この離れにまで来ようとしないのだった。苛立ったように立ち上がる御柳の裾をは離さない。 「なんだ」 「つれてって」 「勝手にしろ」 ほどこうと重ねたてのひらのつめたさに、御柳は知らず息をのんだ。 潤んだ目と、早く浅い呼吸を見れば、熱が高いのは言うまでもない。 「つれてって」 なにかのまじないのようにが繰り返す。 御柳は、憑かれた。 ごおう、ごおおう、と、赤いけものが咆える。 たちのぼる黒煙は、いまや舘を軽々とのみこんで、天にも届く巨大な城となっていた。 つないだの手はあつい。最初に感じたつめたさなど嘘のように熱を帯びている。ときどき何かの発作のようにつまづきかけるのを、御柳は淡々と支え、走りつづける。 こんなことをしていても敵の首は取れない、と何度も思った。 そのたびに、の手が揺れる。ほんのすこし。存在を訴えるには充分な強さで。落ちてきた木材が音を立てて砕け、火の粉と熱風が喉を焦がす。まだ死ねない、と思った。 駆ける。 煙の城をはしりながら、御柳は、からだが重くなっていくのを感じていた。重力というのはただの自然法則であり、そこに慈悲はかけらもなかった。傷は、炎のそれとはちがう熱を放つ。 「」 がらがらとした声で呼ぶ。答えはないがかまわず続ける。 「どこ、いきてぇの」 「外」 「遠いぞ」 「うん」 それでも、生きていたい、とつないだ手が伝えてくる。遠くても、いかなければ死んでしまうと、あらゆる種類の熱が教えてくる。 「」 もういちど呼んだ。 外へ続くはずの道は、赤く黒くあいまいだ。それでも安全な「外」はどこかにある。必ず。目を凝らせば見えてこないか、ひかりが。かぜが。生きる場所、が。 やわらかい熱を一瞬つよくつよくにぎりしめて御柳は言う。 「死ぬなよ」 けものが斃れる。 つかまれた腕がひきよせられた。次の瞬間、それは遠心力に変わった。 腕、が。 指が。 「御柳!」 ほどかれたばかりの手はまだかすかに痛むというのに炎がすべてを覆ってしまう。 「みやなぎ」 熱にかすれた声が呼ぶ。 答えはなかった。炎の風が肌を焦がす。はわずかに息を呑み、それからまた、かけだした。 ひとりきり。 たったひとりきりで外をめざして、走る。
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