Chapter02.

 
 入部するためにわざわざ試験制度を用いるなんて、いったい何を考えているんだろうとは思ったが、しかしまわりを見渡せば皆それが当然であるような顔をして用具の手入れをしている。あの御柳でさえ、だ。昨晩菖蒲から用具一式を渡されていなければ準備段階からして落第だっただろうな、と溜息をつくと、隣に座っていた少年が声を掛けてきた。
「君、もしかして3組の?」
「え、うん、そうだけど。ごめん、もしかして同じクラスだった?」
「やっぱ覚えてないか。俺、墨蓮つーの。自己紹介ん時寝てたっしょ」
「あーバレちゃったか。皆同じこと言うから眠くてさあ」
「まーねーさすがに隣だからー」
「はァい?」
 出席率の悪い御柳はともかくとして、生真面目そうな墨蓮の顔さえ知らなかったのは流石にまずい。
 笑顔のまま硬直するに、墨蓮はにっこりと笑いかける。
「周りの奴の顔くらい覚えとけよ」
「善処しとくね」 
 あはははは、と乾ききった笑い声で合唱すると、トークタイムは試験開始を告げる声に終了させられた。墨蓮の表情が好戦的になる。こっちが地だろうなとはぼんやり思う。
 少し離れたところで御柳がガムを吐いた。
 
 
 
 
 
 
 先ほど試験についての説明をしたのが主将の屑桐無涯。
 近くで見てみると、顔半分に広がるのはどうやらケロイドらしかった。目のすぐ上までを包帯が覆い隠している。話の内容はほとんど耳を素通りしたが、赤い目と低い声は気に入った、と御柳は胸で呟く。
 そして現在、隣でパラシュートを背負いなおしているのが
「ねーなんかこのベルト長すぎない?」
「えェー思いっきし平均身長サイズじゃないっすかー」
「あー悪いバカに話しかけたのは俺のミスだった」
「ごめェん離れすぎてて聞こえないっていうかァー芭唐クン180あるからァー」
「死ねファッキ…」
 
 ゴ  ッ
 
 鉄拳制裁。頭を抑えて震える2名に、眉を寄せた屑桐が静かに尋ねた。
、御柳、おまえら二人とも棄権で良いか?」
「「御冗談を」」
 先ほどまでの殺伐とした会話の名残も無く、キラキラと光が降り注ぐ程さわやかな笑顔で唱和する。屑桐はまだ何か言いたそうだったが(当然だ)後に続く試験待ちの列を見て口を閉じた。
 屑桐が離れると同時にレーン横のマネージャーが短くホイッスルを鳴らす。
 離れる間際にが低い声で言う。
「御柳」
「あ?」
「確かに俺は身長低いし、筋力なんかたぶんお前に全然届いてないけどさ、」
 二度目のホイッスル。用意、の合図。
 レーンの先を挑むような目で見据えながら、は少し笑う。
「…負けねぇよ?」
 
 砂を蹴る音はすぐにギャラリーのどよめきに紛れた。
 
 
 
 
 
 
 本人が言うとおり、はパワータイプの選手ではない。投力は平均よりやや低め、バッティングに関してもホームランよりはコースを狙った安打のほうが多い。守備力は優れている。三球を同時に捕球した。
 しかし、この能力は。
「冗談だろ…」
 墨蓮は呆然と呟いた。
 パラシュートを背負って走れば当然後方に向かって抵抗が生まれる。早く走れば走るほどそのエネルギーは大きくなる。ましては軽い。重りを付けたパラシュートの、重い方が早く落ちてくることを考えるなら、その軽さはこのパラシュート走行においては欠点であっただろう。
 御柳だって遅くはなかった。実際タイムをみれば平均より上だ。
 スタート直後に前に出たのは御柳だった。パラシュートが開いたのは二人ともほぼ同時で、御柳はそれから20mほど加速した。繰り返すが決して遅くはなかったのだ。は50m地点をとうに過ぎていた。
 奇妙な光景だった。
 同じものを背負っているはずなのには抵抗など何もないように走った。パラシュートは風を孕んでいっぱいに開ききっているのに、それは何かの幻のようだった。
 11.93

 ストップウォッチの液晶に浮かんだ数字が、マネージャーからギャラリーへ、波紋のように伝播していく。  このあいだの体育の授業で、クラス内で際立っていたのは陸上部だった。の記録は確か下のほうだった。真面目に走れと怒られていた気もする。最高タイムが、たしか、12秒台だったような。
「11秒、って」
 数字が信じられなくても、は、確かに走っていた。軽く。疾く。
 視線の先で小柄なクラスメイトはパラシュートの始末に苦戦している。手を貸そうかと踏み出した時、こちらを振り向いて笑った。それこそ、何の気負いもない、あたりまえの表情で。
 パラシュートなんて背負っていないのに前進は途方もなく困難な気がした。
 どうしても進めなかった。
 
 
 
 
 
 
 スタートのホイッスルが鳴って、走り出したのは覚えている。
 パラシュートの開く音を後ろに聞いたのも、覚えている。不可解なのはそれから先だ。
 反対側のレーンを走るの姿が視界に入った。さえぎるものは何もないから見ようとすれば見える。だけど、あの時、前を見ていたのだ。すぐ隣を走っているならともかく、何レーンも遠くにいる相手の姿なんてそうそう見えるものではない。
 すぐに、追いつこうとした。
 空気抵抗が酷く重かったけれど、どうにかできないレベルではなかった。地を蹴った。景色が流れた。
 それなのに、どうしてだか、前に進んでいなかった。
 の形だけどんどん鮮明になって、両足は見えない手に掴まれる。
 冗談じゃない、と思った。
 ギャラリーはとっくに流れて色彩の渦になっている。耳元で血流がやけにうるさい。何か叫びたかったけれど言葉のかわりに酷い呼吸だけ吐き出した。
「負けねぇって言ったでしょ。俺のこと嫌いになった?」
 肩で息をしていると、近づいてきたは開口一番そう言った。
「…んな、いまさら…」
 答えると、きょとんと目を見張って、それからおかしそうに笑う。
「あ、そっか。だよね、御柳だもんねえ」
「喧嘩売ってんのかてめー」
「いやいや、それこそ『いまさら』っしょ。先に売ってきたの御柳じゃん」
 もっともだったので御柳は目を逸らす。
 タオルで顔を拭いていると如月に背中を軽く叩かれた。驚いた。チームメイトみたいだったから。
「まあ、俺も頑張んよ」
「普通『頑張れ』じゃね?」
 顔を背けて、厭そうな声でが言う。
「…打力であれだけ差つけといて、おまえは…。ようやく並んだってのに」
「てこたァ何よクンってば俺のこと大好きなの?」
「黙れ馬鹿なんでそうなる。対等じゃなきゃムカツクだけだって」
「へーェ、ふーん」
「…ああーもう、さっさと行かないとまた怒られんじゃん!」
 焦れたように先を走り出す背中に息を呑んだ。
 パラシュートをはずすとそれは信じられないほど小さかった。
「御柳、おまえは一人で怒られてろ!」
 振り返って叫ぶ、楽しそうな表情。
 
 
 
 鮮やか過ぎて、忘れられない、 背中 と 笑顔 。
 
 
好きで嫌いで届きたい高嶺になる

 

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