彼は異国の言葉で何かを呟く。聞き取れずに彼女は聞き返す。いくらかゆっくりとした発音で彼はもう一度同じ単語を繰り返す。run(走る)とaway(向こう側)。それで逃避(run-away)になる。視線の先では大きな影がくずれおちたところだった。むこうがわ?それならその場所は、少なくとも現在位置よりマシなんですか。皮肉でもなくそう言って、彼女は赤々と燃える対岸を眺めた。川を挟んでも熱気が伝わるような錯覚をおぼえる。実際には火の粉ひとつとんでこない。誰かが残っているだろうか。死んでいないものが何かひとつでも残ろうとしただろうか。わたしの対岸が、あちらではないのは確かです。もう二度と。かすかな笑いさえ含んで彼女は馬首をめぐらせる。振り返ろうともせずに、踏んだことのない土地を、一歩一歩着実に進んでいく。彼はもう一度燃え盛る収容所を眺め、それからぶるりと身を震わせた軍馬のたてがみをなで短くささやく。
「行こうか」 |