「直属の上司でもないってのに、あいつの意見まで考慮する必要はねーだろ?」
「冗談はやめてくれ」
 かすかに眉間をけわしくして、は、肩を掴む手から逃れようと上体をよじった。おおきなてのひらは離れない。ヨザックが目を細める。賢い獣の貌をして。
「冗談?」
「本気ならなおさら悪いな。…おまえと一緒に寝たら、目が覚めて叩き落されているのがオチだ」
 いまならまだ引き返せる。
 どこか引きつったようにが笑って、無理にも冗談でとどめようとした。
 いまなら、まだ。
「んなわけねぇのはお前が一番知ってんだろ。なにせ前は一晩中抱いてたんだ」
 口調はごく軽いけれど笑ってはいない。
 ののどの奥に張り付いた悲鳴は形を成さずにかすれた吐息になる。言葉でさえない。
 あれから何年が過ぎた十年いやもっとその間にわたしたちは何度目を逸らしてきたのかそれらのすべては忘れるための消し去るためのあれはあれは    あれ  は
「うそ」
「嘘?何が?オレはお前を抱いた」
「やめろ」
「それともお前はコン…」
「やめろッ!!」
 はねるようにが動き、薙ぐように動いた刃を、ヨザックはわずか身を引くことでそらした。
 いつかの夜のように室内にはいたたまれないような沈黙が充満し、ただあのときと違うのは、リンがはっきりと動揺していることだった。震える刀身に苛立ったように息を吐き、もういちど、低い声で「あれは」と呟く。
「もう、昔のことでしょう?」

「たった一晩、十年以上前の。…それを、こんな…今更」

「わたしはッ」
 あと五センチも近づけば吐息がかかるような距離だ。間には凶器。途方も無く遠い近距離での瞳がゆらぐのを、ヨザックはしずかに見ている。
「わたしは…少なくともグリエ・ヨザックを愛したりなんて、していない」
「知ってる」
「他の誰かに恋愛感情を抱いていると思うのなら、それも間違ってる」
 ようやく相手に焦点を絞ることに成功して、彼女は、どこか安堵のにじんだ声で呟く。
「あなたが思うほどきれいじゃない。わたしは、みにくい」
 呆然と微笑んだ。
 名前も知らない肖像画みたいに。
 

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