扉の前でその足音が止まったのを聞いて、コンラートは、まさか、と思った。
「交代です、閣下。鍵を開けていただけますか」
 波の音だけ繰り返しささやかに鼓膜を通り過ぎる。静か過ぎる夜に、押し殺したかすれ声は損なわれることなく室内に届く。
 
「それで、予定より2時間も早く来たのには、何か理由でも?」
 あたたかい湯気のたちのぼるカップをふたつ手にして、ふりかえったコンラートは、ソファーでうつむく元部下に問うた。返って来た答えは「何も」と極端に短い。
「何もないってことはないだろう。それとも俺は予定時間を間違えて伝えていたかな」
「…いいえ。今から2時間後と、お聞きしています」
「じゃあ、俺には立案者として、お前の行動に説明を求める権利がある」
 手渡すカップごしに、が顔を上げた。
「何故、ヨザックを」
「この任務に選んだ理由か?選任したのはグウェンだから俺の予測でしかないけれど、まあ、信頼できる技量を持っていて、丁度よく帰国していたからだろう。実際あいつの護衛なら安心してられる」
「しかし彼はあくまでも、わたしたちとかかわりの無い人間としてこの船に乗っているのでしょう」
「船旅がきっかけで親しくなる奴はいくらでもいるさ。見ず知らずの人間を説得する手間なんて、そうそうかけたいもんじゃない。…さて、俺は質問に答えたんだが」
 薄茶の瞳を直視してしまって、はとっさに視線を落とす。琥珀の色をした液体越しに、カップの底を睨みながら、黙って状況打開策を考える。焦るくらいならこんなところに逃げ込まずにデッキにでもいればよかった。それでも、こんな海上でひとりになるのはいやだった。海は苦手だ。ヴォルフラムのような体質こそ無いものの、ふとした瞬間に吐きそうになるのは消化しきれない記憶だ。
「…閣下と海を渡るのは、これで二度目でしたね」
 一度目は幼い日に。
 海を越えた大陸の国、シマロンから連れ出された夜。強情に口を結んだ子供に手渡されたのは、こんな上等な紅茶などではなくただの水だったし、カップといってもあちこちへこんだ金属製のものだった。それでも充分信じがたい出来事だった。嬉しかった。奪おうとしない、与えようとするひとに出会ったのなんてはじめてだった。
 何か返したいと願った。
 何も持っていないから、せめてこの身のすべてを捧げようと、きめた。
「ああ、そうだな」
 話がそらされていることに気づかないコンラートではないが、一瞬眉を動かしただけで、会話を続ける。
「何十年前だったかな?お互い歳を取ったもんだ」
「閣下ぐらいわかりやすく成長してるなら取った甲斐がありますがね」
 身長というのはきわめて顕著な成長の記録だが、の記録が変化したのはおもに最初の三年間で、その後はほとんど横這いになっている。栄養状態の変化と成長期が重なったことをさしひいても、期間を過ぎた後の停滞はおそろしく長かった。混血は成長時期をさまざまにするとはいえ、彼女のそれには若干異常な部分がある。
 標準的なペースで成長した男は、わずかな羨望がまじった台詞を、軽く苦笑して受けた。
「比較対象は同性にしてくれ。アニシナと並べばおまえの背だってちゃんと伸びているだろう?」
「していますけど、」
 有事の際には戦場へ赴くとはいえ、アニシナは基本的に文民である。
 軍に在籍するとは、その日常があまりにちがう。
「…でもせめて、普通の長剣を使えるようになりたかったな」
「今のままでも充分だと思うが」
「不足とは言いませんよ。ただそのほうが役立ったんじゃないかって、思うことがあるだけで」
 思ったところで時間は戻らないから「詮無い事です」と呟いて、はカップに口をつけた。冷めた紅茶はなんの刺激もなく喉を通り過ぎる。
「だったらもっと俺達を利用しろ。何もかも持てるわけがない。補いたければ周りを見るしかない」
 腕を組んで椅子の背にもたれたまま、コンラートが目を伏せた。
 父親違いの兄弟たちに比べれば華やかさに欠ける容姿だと言われているが、わずかに影を落とす睫は長い。それでもあくまで武人としての堅実さが薄れないのは彼の経歴によるものが多いのだろう。
 死線を越えた数だけ、牙は鋭くからだの奥深くに潜むようになる。
「その言葉は閣下にお返ししましょう」
 コンラートが視線を上げる。
 薄茶に銀の散る虹彩を、今度は迷い無く見据えて、は挑むように唇の端をつりあげる。小禽の顔だ。数え切れない刃をくぐりぬけて笑う兵者の顔だ。
「利用してください。あなたの復帰を望むものがいるんです」
「俺は戻らない」
「陛下のためですか」
「いいや」
 否定されたことに鼻白んでが軽く目を見張る。
 コンラートはまた、薄く笑ってささやいた。
「俺のためだよ」

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