Memory not rainy

流れ消えない記憶

 数年前の話だ。
 新しい家にどうしても馴染めなくて、いっそのこと全部投げ出してしまおうと思った。
 捨ててしまいたかったのは朽木の名前だけだったけれど、同時に他の何もかもを失うことになる。それが怖くてずっと我慢してきた。それに、あのひとに嫌われたくはなかった。
 でも、愛されている理由なんてどこにある?
 嫌われることに恐怖しているけれど、今、嫌われていないと誰に言えるのだろう。少なくとも私は、大多数から疎まれている。どうしてあんな小娘を、という陰口は飽きるほど聞いてきた。
 …愛されない理由なら明確だ。
 気づいたとたん、もう何もかもがどうでもよくなってしまった。
 学校から帰る途中、信号で停止したときを見計らって、私は車のドアを開けた。呼び止める声、追いかけてくる足音を振り切って走った。制服の硬い生地が風をはらんで脚に絡む。痛かったのはきっと精神などより脆弱な脚のほうだった。
 暗くなってきて、ようやく、何処に行ったらいいものかと考えた。
 こんな状況で頼れるような相手は、学校にはいない。
 思い浮かんだ顔は、すぐに打ち消した。頼れない。よしんば彼の、一護の家にでも駆け込んだとして、すぐに朽木家の手が回るだろう。養子入りする前に親しかったひとたちは、ことごとくマークされていると考えてもいい。ただし、警察に報せが行くことはないはずだ。こんな形で家名を損なうようなことがあってはならない。あのひとは…兄は、少なくとも数日の間をおく。
 こんなことをいちいち勘ぐるのが他人行儀なのだと、一護は言うだろう。
「おい、そこの女子高生」
 まさか自分のことだとは思わなかったが、二度目に同じ台詞を聞いたとき、声が予想外に近づいていたので思わずふりむいた。目を疑った。
 髪を。
 染め直して少し伸ばしていたなら。
「おまえ…一護!?」
「は?」
 男は心外そうに眉を寄せ、それからますます顔をしかめてかがみこんだ。
「イチゴだか何だか知らないが、初対面で『おまえ』はねえだろ。俺は志波海燕。『君』の名前は?」 「…ルキア、です」
 苗字が無いのには気づいていたらしかったが、男はそれ以上の詮索をせずに、ふぅんと曖昧な相槌を打った。
「まあまあ上出来。で?」
「え?」
「ルキアちゃんはこんな時間にこんな場所で、何してんだよ。特にその格好」
「制服が何か」
「マニア垂涎の一品らしいぜ?遠からずそのへんに連れ込まれてアレコレされると俺は見たが」
 言われてみればあたりの看板に掲げられた文字は、どれもこれもいかがわしい。そうしてよく考えれば、真意が見えないこの男も、それなりに怪しい。というか見ず知らずの小娘に声を掛けてきた時点で「かなり危険」に分類されている。
「ご親切にどうも。失礼します」
「ちょっと待てって!」
 駆け出そうとした矢先、袖を掴まれる。反射的にふりほどこうとした途端、び、と厭な音が聞こえた。
「げっ」
「ああっ!?」
 まじまじと眺めても、避けた布地はもどらない。海燕が心底申し訳なさそうな顔で言う。
「ごめん」
「あ、いえ、そんな、私の不注意で」
「いや、俺が引っ張ったから…本当に済まん!あーっと、ここから俺の家近いから、よかったら寄ってってくれないか。せめて応急処置だけでも」
 段々と不信感が募るのが伝わったのか、海燕は仕方なさそうに苦笑した。
「まあ、警戒されて当然だけど、変な意味じゃねえから。頼みたいことがあってさ」
「頼み?」
「ちょっとモデルをな。ああ、名刺渡したら少しは信用するか?」
 渡された長方形の紙には、志波水彩画教室、と書かれている。
 教室という言葉と目の前の男の印象が噛み合わず、つい、見比べてしまった。
「そっちは副業みたいなもんさ。本職は絵描き。最近ようやく売れてきたんだ。そのへんのバイヤーに名前出せば、まあ、どうにか通るぜ」
 そうして左手を軽く掲げてみせる。薬指に装飾のない銀色。
「そういうわえだから妙な心配はすんなよ。がっかりしてくれる分には構わねえけど?」
「はあ…」
 
 そして結局家まで来てしまったのは、たぶん、彼が懐かしい従兄弟によく似ていたせいだ。

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